
私が光の業界に入ったきっかけは、Hi-Fiオーディオとの出会いでした。当時、高校生だった私は毎日のようにFMラジオをカセットテープに録音していましたが、MD(ミニディスク)が登場して環境が一新されました。光磁気記録方式によりデジタル録音された音楽を自由に編集することが出来ますし、デジタル光ケーブル1本でCDプレイヤーから簡単・高音質にコピーが行えます。この時、光ってすごい!これからは光の時代だと感じ興味を持ちました。そして、徳島大学に光応用工学科が新設されたことを発見し進学しました。音と光は縦波と横波で違えど同じ波であります。

大学時代に配属された西田研究室がホログラムとの出会いの場でした。私に与えられた研究テーマは、フォトリフラクティブポリマーを用いた光情報処理に関する内容でした。光の特長である並列性と高速性を用いて、将来の光コンピュータを構築するために、光で光を制御できる有機材料について研究していました。と、言っても研究室1期生の私には先輩は一人も居らず、先生は海外に赴任しており、何をするにも試行錯誤の毎日でした。材料の特性向上のために数万kVの電圧を印加するのですが、どのようにしたら高電圧を印加しても耐えられるか、毎日のようにポリマーをガラス基板に挟みこんでいました。結局、実験に耐えうる優秀な素子は2,3個程度しか出来なかったのですが、その素子は10万kVにも耐えうるものでした。
さらに、先生から研究内容は理解できなくとも、自腹を切って研究会に参加することは、将来の自分に投資することだと教わり、毎年、光コンピューティング研究会(現、情報フォトニクス研究グループ)の夏合宿に参加していました。その際、浜松ホトニクス株式会社中央研究所の研究者から光相関器を用いた指紋認証装置の講演を聞きました。この時の話がとても印象深く、企業に所属する研究者に憧れを覚え、結局、就職活動を行った唯一の企業が浜松ホトニクス株式会社でした。その就職面接試験で、面接官から入社したら何をしたいか?との質問に対して、「研究して、ものづくりして、お客様に売るまで全て」と答えました。が、面接官からは「そんなこと出来るか」と、言われたことを思い出します。

浜松ホトニクス株式会社に入社し、1年間の事業部研修を終えた後に希望していた中央研究所に配属されました。研究テーマは、究極の3次元表示装置である動画ホログラフィーでした。1つの研究テーマに年中集中できる非常に恵まれた環境でした。ですが、新しいアイデアはなかなか出ないもので、3年間の研究の中で生まれたものがホログラムゴーグルです。毎日の様にホログラム再生像を観察していて、何かがおかしいと感じ、ひたすら試行錯誤の日々が数ヶ月続きましたが、その結果、発見したことがきっかけになりました。その後、会社からMIT(マサチューセッツ工科大学)へ派遣され慣れない海外生活になりました。その海外での生活は、私に大きな刺激と文化の違いを体感させてくれました。米国から見た日本は、日本から見た北朝鮮の様なもので、50年遅れていると話を聞いたこともありました。米国での生活も1年が経つと慣れました。1年その環境に居れば何でも慣れてしまう。これは私の教訓でもあります。

米国から光産業創成大学院大学の開学を聞いていましたが、日本に帰って来た私に光産業創成大学院大学へ入学の機会がやって来ました。浜松ホトニクスへの入社当時に抱いていた「自分の手で自分の研究成果を事業化したい。」その初心に戻り、期待一杯で入学しました。しかし、現実の世界は甘くありませんでした。ビジネスのビの字も知らない未熟な私は会社を設立したものの、実際に資金を使うことが怖く、半年間苦悩の日々が続きました。それは、自分に自信の無かったからです。しかし、助成金の採択により開発がスタートしました。スタートした以上、前進するのみでした。そして振返れば、実践こそが一番効果の高い勉強方法でありました。研究でも開発でも営業でも真面目にすれば、何も損をすることは無く、すぐに利益が得られなくとも、自分は儲かっているのだと感じるようになりました。そうすると、次は光産業創成大学院大学における研究とは何だろう?と、考え始めるようになりました。そして、少しずつ自分の考えと夢が生まれてきました。光産業創成とは、光技術を通じて新しい産業を創出し、人類に新しい文化をもたらす事。それが新しいサイエンスの源になるのだと。私たちは光の可能性を追求し続けます。そして人と心の融合を通じて地球に貢献します。